きょうと明日を使って、今年一年をざっと振り返ってみようと思ってます。僕が日記を付け始めたのは7月からなので、
書く内容も7月以降の出来事や変化が中心になると思います。
きょうは、今まで日記を付けてきての感想。明日は、高橋愛を見てきての感想を書く予定です。





いつか書いたような気がしますが、この日記を始めるにあたって考えていたのが



・エッセイっぽく書く


・『やさしい』場所にする



この2点です。
エッセイっぽく書く、というのは例えば「空が青かったから愛ちゃんを思い出した」みたいな文章のこと。自分の日常の様々な
出来事から高橋愛への想いへと繋げていく、という書き方です。今でも一番書きたいのは、そういう文章です。



『やさしい』場所にする、というのは具体的には、これも多分一回書いてますが、
「批判、批評、議論をしない」「常に優しい言葉をかけ続ける」「求めない。望まない。」
の3つです。



これらの前提の上に日記を書き始めたのが7月。僕が『テキストサイト』という言葉を知ったのはその2ヶ月位前だったと思います。
それ以前に知っていたテキストサイトは、今にして考えるとピストルさんの『亜依國精神』くらい。その『亜依國精神』にしても、
テキストサイトという認識はありませんでした。



だから日記を書き始めてしばらくして、テキストサイト(というかブログ)のメインストリームが論議にある事が見えてくると、
正直「あ〜この『ブログ』という選択肢は違ったのかな・・・・・」と、少し悩んだりもしました。特にこの『はてなダイアリー
ではモーニング娘。に関する様々な議論が交わされていますから、尚更、自分が何か間違ったことでもしてるような気持ちになった
こともあります。



今お邪魔している『高橋界隈』にしても同じで、もし、僕がテキストサイトやブログに対していわゆる「半年ROMる」という行為を
していたら、おそらく『わたあめッセ』に飛び入り参加、はしていなかったと思います。名うての論客揃いのメッセに「こんにちはー」
と入って行く根性が自分にあるとはよもや思えません。その時の『わたあめッセ』のイメージは、「愛ちゃんのファンが集まって楽しく
話してる」、このイメージ以上でも以下でもありませんでした。



わからないままにもポンっと飛び込んだのが幸いだったのかもしれません。基本的に、イメージ通りの場所でしたから。
自分の日記の内容とメインストリームとの差異についても、だんだん「ま、いいかな」と思うようになりました。



毎日日記を書いていく。界隈の方々と交流していく。コメント欄で、界隈以外の方ともお話できる機会も生まれたりして、
そんな中で楽しかったり、感動したり、悩んだり。毎日なにかしら感情の起伏が起こって、実際に界隈の方とお会い
したりコンサートに何回か行くことによって、その起伏はだんだんと大きなものになっていったような気がします。
日記を書く以前の、まるで脈を打たない脈拍計のような生活からは得られない様々なものを、この数ヶ月間で得ることができました。



特に界隈の方には、震え上がるような高い愛ちゃん視点を持った方がいっぱいいらっしゃいますし、そういう方の文章やメッセ
でのお話に後押しされるようにコンサートに参加したり、コンサートの見方を教えていただいたり、もちろんコンサートはそう
いう事抜きでも十分楽しめる場所ですし、単純にすごくいい思い出にもなりました。みなさんには感謝の気持ちで一杯です。






10月にサイトをリニューアルして、ここでは高橋愛以外の事は書かない、と決めてからは、『緊張感』がかなりのウエイトを占める
ようになりました。休まずに書けるのか、しかも気持ちを込めて書けるのか、という『緊張感』です。
ボーっとしている時間が極端に減りました。家にいても外を歩いていても、何かしら考えている。この日記の副題にしている
『つながり』を、どんな細いつながりでもいいから探し求めるようになっていきました。



僕が、用事以外の日は必ず日記を書くようにしているのには2つ理由があって、まず一つは、そうしないとほぼ確実に日記をやめて
しまうからです。元々どうしようもない不精者なので、一度「書く事ないからまた明日」とか始めるとズルズル書かなくなるのが
目に見えてる。そして、書きたいことが出来た時には、もう頭が『不精』の膜で覆われている。その膜を常に拭き取る作業が僕に
はどうしても必要で、だからなるべく毎日日記を更新したいんです。



理由のもう一つ。日記を書くことが、僕にできる数少ない、高橋愛のファンとしての行動だからです。



僕は『 BUMP OF CHICKEN 』というバンドが大好きなんですが、彼らの曲の中に、
『 Ever lasting lie 』という曲があります。こういう始まりの曲です。




『 砂の海で  錆びたシャベルを持って


  まるで闘う様に  夢を掘る人


  赤く燃える太陽に  身を焼かれても


  必死で  這い上がろうとする    』 




この「掘る人」は、愛する人のために石油を掘り続けています。 石油など永遠に出てこない砂の海で。
彼は曲の中で年を取り続け、ついにはおじいさんになってしまいます。それでも彼は、愛する人の為に石油を掘り続ける。



ラスト近くの歌詞です。




『 砂の海で  折れたシャベルを持って


  作り話のような  夢を掘る人


  刻まれた皺の奥の 瞳は未だ


  必死で  ただ  必死で      』




ただの、馬鹿。



でも僕は、高橋愛のために砂を掘り続けたい。例え少しずつでも、先が見えなくてもいいから、シャベルを砂に突き刺し続けていたい。
高橋愛に対する見識も甘い、浅い、ただカワイイカワイイしか言えない僕が出来る数少ない、砂を掘る作業。
それが日記を書き続けることだと思っています。だからできるだけ、できる限り書いていこう、そう心に決めています。



この日記が来年どうなっているのか、自分自身でもわかりません。でも『高橋愛の瞳』という場所で文章を書く以上は、
まっすぐに、ひたむきに、もう何回も使っている言い回しですが、
高橋愛への想いを綴る」
この一点だけを考えて書いていけたらいいな、そう思っています。