高橋愛は可愛い。高橋愛は歌がうまい。高橋愛はダンスがすごい。
愛ちゃんファンなら多分ほとんどの人がそう思ってるんじゃないかと思います。ファンになる理由はその3つだけじゃないし、
いろんな理由が混ざり合って絡み合って、そして徐々にであれ、突然であれ、焦がれていく。そういう気持ちが生まれていく。
だから「可愛い! うまい! すごい!」と3つだけ言うのはあまりに端的すぎると自分でも思ってるんですが、僕がこの3つ
の言葉を単なる文字の羅列以上のものとして感じ始めたのは、おそらくつい最近になってからです。



僕が最初に愛ちゃんいいな、と思ったのは、やっぱり『可愛い』から。歌がうまい、というのももちろんありますが、最初の入り口は
『可愛い』だったと思います。喋り方とか、笑い方とか、とにかく可愛いと思った。
そしてだんだんと歌声に魅かれていきました。僕は、本当は愛ちゃんみたいなタイプの歌声は好きじゃないはずなんですが、
何故か魅かれていきました。




この秋に何回か行ったコンサート。高橋愛だけを見ていたのは始めてのコンサートも最後のコンサートも変わらないんですが、
『どんな』高橋愛を見に行こうとしていたのか、それは回数を重ねる毎に変化していきました。



最初は、「可愛くて歌がうまい、モーニング娘。の中で一推しの愛ちゃんが恋INGを歌っている」。



あの曲を、実際にこの耳で聴ける。愛ちゃんが歌っているあの曲を聴くことができる。あの曲を歌う愛ちゃんが見たい。
始めてコンサートのために遠出して倉敷まで行って、そして、聴いた時には、ただただ嬉しかった。すごいキレイな声だ。
すごい。すごい。なんだかわからないけど、すごいと思った。そしてひたすら嬉しかった。



そして、ステージ上の高橋愛を見て行くうちに、「一生懸命に歌って踊っている愛ちゃん」。



いつも全力で踊っていました。調子が悪いのかな、と思った時はありましたが、力を加減してると思ったことはありません。
コンサートに行った数は少ないですが、少なくとも僕の見たステージ上の高橋愛は、常に力を尽くしていたように思います。
毎回毎回「すごいなあ」と感じていて、でも一体何がこんなに自分の琴線に触れるのかよくわからなかった。わからなかった
けど、見ていたかった。



最後の滋賀では、「自分の表現の限りを尽くそうとする高橋愛」。



爆発と抑制をステージに叩き付ける様を目の当たりにして、ただ呆然とする以外にありませんでした。
そして、この事に気づいたのがコンサートツアーの後半だったことが悔しかった。もっと早い時期に
気づけていれば。



どうしてこれほど高橋愛の表現が自分の琴線に触れるのか、全て理解するなんて僕には無理だと思いますが、一つだけ
こうじゃないかな、と思った事があります。それは、彼女が『陽』のみならず『陰』の部分を曝け出してくれるからなのではないか。
僕は、影を作らない光に魅かれることはありません。そして、表現とは、自分の一部、あるいは全てを曝け出すことだろうと思います。
『陽』だけの表現では、僕の心は動かない。もちろん、『陰』だけの表現など、見るに耐えないものになるでしょう。



彼女はステージで、『陽』も『陰』も見せてくれる。彼女の全てを曝け出してくれる。彼女の全てを、赤裸々に描ききろうとする。
だから僕は高橋愛のステージングに魅かれていったんじゃないか。そう思ったりしました。





そして回りまわって、やっぱり愛ちゃんは『可愛い』。
ただ、ファンになりたての頃の『可愛い』と今の『可愛い』とではなにかが違います。深く思うようになった、と言えば
簡単ですが、ちょっと言葉足らずな気もするし。それでも、今、口ずさむ『可愛い』という言葉は、間違いなく以前よりも
確かな響きを持っています。




来年は、もっと『可愛い』といえる年であればいいな、と思ってます。もっと心の底から。もっと力の限り。
多分僕は、まだ『可愛い』と言い切れていない。
そして言い切れていないそばから、高橋愛はもっと可愛くなっていく。