なんだかみなさんがどえらく書いていらっしゃるので僕もなんか書かないと、どうも腰が落ち着かないような気分に。
んじゃ、かっしーさんに「抽象論書くくらいならコメントつけるなアホボケ氏ね今度会ったら殴る」と多分言われている
コメントについて怯えながら書いてみます。ママ、僕コワイ・・・。



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『ステージの愛ちゃんは、どうして輝いて見えるのか?(id:tkassy:20050608)』


ここに僕のつけたコメントが、
『「好きな人」が、生命の振り幅を見せてくれるから、かも・・・。
・・・いや、なんというか、はい・・・。』


それで、この説明なんですが、まず上の問いかけは、客観的とか一般的じゃなくて、僕自身がなぜそう見えるのか、でいいのかな?
かっしーさんが出した答えを見ると
>心からの笑顔に魅せられているから。
と書いてあるので、自分が、どうして愛ちゃんのステージに魅せられるのか、でいいのかな?
一応、そういう方向で書いて行きます。




でも、そんなに抽象的な事は書いてないつもりなんです。
「好きな人」はファンとして愛ちゃんを見た部分、「生命の振り幅」は、表現者として愛ちゃんを見た部分です。




ちょっと箇条書きっぽくなるかもしれませんが、まず、表現者
ここでは愛ちゃんは、ひとまず切り離します。
切り離して、表現者一般、または芸術一般の話をします。なんか、偉そうな物言いだ・・・。




僕は、表現者や芸術家が自分を表現する対象に向き合ってなにかをこの世に生み出した時に、
その生み出したものが、もしも輝いていないのなら、その人は表現者、もしくは芸術家ではないんじゃないかと思っています。
例えばその対象がステージの上なら、ステージの上で輝いていない人は、表現者ではない、と思っています。




一行だけ愛ちゃんを戻します。だから、愛ちゃんが『表現者』ならば、輝いてるのは当然だ、と思っています。




また愛ちゃんを切り離します。どうして、表現者や芸術家は、輝ける存在たりえるのか。
んでもって、ここで「生命の振り幅」が出てくるんですが、
これは、ステージでも、音楽でも、劇でも写真でも絵でも同じで、およそ「美」の創造に必要な根幹の1つが、
「生命の振り幅」だと思っています。言い方を変えると「喜怒哀楽のデフォルメ」とも言えるでしょうか。




普通の人間には出す事の出来ない、喜びや怒りや悲しみや楽しみを出せる。
例えばステージングなら、こんなにも笑い、喜び、悲しみ、そして怒る。その生命の躍動があまりに眩しくて、
それを見て人は感動し、そして表現者は輝く存在になる、のではないかと思っています。
一生懸命頑張ったから輝くのとはまた違います。想像力を駆使して躍動を表現するから、その結果輝くのが、表現者であり
芸術家だと思っています。




だから、表現者は輝いて見えるんだと思います。
だから、表現者である高橋愛は輝いて見えるんだと思います。
と、言う具合に、「生命の振り幅」は繋がっています。




ただ、そういう表現者はこの世にいっぱいいます。その中で僕や愛ちゃんファンの方々は、愛ちゃんに目が釘付けになっています。
んでもって、「好きな人が」と付けました。
『「好きな人」が、生命の振り幅を見せてくれるから』というコメントは、そういう意味だったりします。
この場合、ニワトリが先が卵が先かというか、神の最初の一撃というか、好きな人がどえらいパフォーマンスを見せてくれるので
もっと輝いて見えるようになったのか、どえらいパフォーマンスをコンサートで見て興味を持ってそこから好きになったのか、
どっちもあると思いますがとにかく、
輝ける存在である表現者が、大好きな高橋愛だから、他の表現者よりももっと輝いてみえる。誰よりも輝いて見える。




・・・と、こんな具合に説明してみました。う〜ん、どうだろう、なるべく抽象的にはならないようにしたんですが。