「お前は高橋愛のどこが好きなんだ?」「なんで高橋愛を見ているとそういう気持ちになるんだ?」等々、『自分自身の中にいる高橋愛』と、『自分自身』を見つめ直す作業を、今年に入ってから漠然と「したいな」と思っていて、ここ最近で具体的にテーマを決めて実行に移すようになっています。
今日は「表情の一部分」について書く、つもりだったんですが、考えているうちにもうちょっと大きく捉えてみたくなったので、「その時の高橋愛」を見ている時の気持ちについて、自分なりに掘り下げてみようと思います。
□  □  □ 先週の土曜日に高島屋大阪店に出かけました。福井の物産展でソースカツ丼を食べるのが主目的です。でももう1つ目的がありました。物産展の隣で開催されている『モーリス・ユトリロ展』がそれです。高島屋のホームページであらかじめ情報は入手していました。絵画に関しては全くの門外漢ですが、せっかく質の高い芸術を鑑賞できる機会が身近にあるのに逃す手はないと思って、入場券を買って展示ホールの中に入りました。
入ってすぐの場所に、ユトリロの半生を説明した文章が貼ってありました。かなり壮絶な生涯を送られた方みたいで、その瞬間に「まずい」と思いました。
絵画を展示してある所まで歩いていくと案の定、その時代毎にユトリロがどういう生活をしていたか、などを事細かく記された説明書きが貼られていて、僕はまず一回、それを見ないで最初から最後まで絵画を見て歩きました。説明書きに絵画の見方を引きずられそうな気がしたからです。僕は、説明書きに説明してもらうのではなく、『絵画』自身に説明して欲しいなと思いました。
そうして、ゆっくりと絵を見ながら歩を進めて行くうちに出てきた一画の絵画群に、僕の目は釘付けになりました。それらの絵の前で呆然と立ち尽くして、なにかが込み上げてくるものを感じたんです。悲しいとか、そういう言葉ではいい表せないような、「なんで?」とか、「何て・・・」とか、そんな表現しか咄嗟には出来ないような、膝から崩れ落ちるような、そのまま足が動かせなくなる。そんな感情にさせられた、数点の絵画。
それは、僕が以前に確かに感じた事のある感情でした。
スイッチの入った高橋愛を見た時の感情、そのままでした。
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2004年11月1日の日記(id:tombouze:20041101)。
この日が、僕が『高橋愛を見た感想』を書き始めた最初の日です。この日から、それまでの「なんかわかんないけどよかった」的な内容から少し踏み込んでいろいろと書くようになりました。
そうやって書きたい、と思わせられた原因は、そこにも書いていますが、高橋愛が見せた『スイッチの切り替わり』にありました。
彼女は何かをきっかけにして(何をきっかけにしているのかについては今回は言及しません)自身のパフォーマンスを一気に加速させる時があります。僕は一度ならずその状況を体感しています。その時の高橋愛は、最早「愛ちゃん」ではありません。
表情、瞳の輝き、体の動き、全てが常軌を逸している。それを見ている時の僕は為す術がありません。瞬きもできない。喉がカラカラになる。もう、何がなんだかわからなくなる。立っているのが、やっと。
高橋愛の、それまでは知らなかった一面をを見てしまってから僕は、誰に頼まれた訳でもないような事を頭を捻りながら書くようになっていったんです。
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ユトリロの数点の絵を見た時に、僕は『スイッチの入った高橋愛』を見ている時と同じような感情に襲われました。ホールを一巡してからもう一度最初に戻って今度は解説を読みながら見直して行くと、僕が立ち尽くしてしまった絵画群は、3つの(6つかも。調べた書物によって異なりました)時代に区分される中の『白の時代』と呼ばれる頃の画風でした。絵の具の白に「漆喰」等を混ぜるという独自の方法でモンマルトルの壁や空などの『白』を表現したこの時期の作品は最も評価が高いようです。
ユトリロこそは壁の画家だ。その絵には、迫害と悲劇の、言葉では言い表せない感じがこもっている。目には映らない苦しみをこうして示すことで、これらのうらぶれた風景には、ある種の神秘的で確固とした威厳が備わる。
アンドレ・ド・リッテール
ユトリロは不遇な人生を送った方みたいで、その気持ちをキャンバスに塗り込めていたらしいです。
ただ、今回の僕のテーマでは、彼の人生の苦しみや悲しみは直接関わっては来ません。
ある一線を越えて『気持ち』を注入している芸術的対象に向かい合った時に、僕の心に去来しているものは一体何なのか。
何故ユトリロの絵を見て僕のこころは震えたのか。
何故、スイッチの入った高橋愛を見て僕は喉の渇きを感じてしまうのか。
その感情を、もちろん「すごいから」という感情は前提としてあって、それをもう一段推し進める形で何か言葉を探したい。そのために両者と向かい合って自分の中で反芻し続けました。
それで、1つの自分の中の答えとして、『こわい』んじゃないかな、思いました。
『こわい』というか、『おそれ』。
畏敬(もしくは畏怖)の念が多分にあるのだと思います。
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・・・・・今日はここまでです。ああぁゴメンナサイィィ。
実は今、熱が38度5分あって(なら書いてないで寝ろよ)、『畏敬(畏怖)』以降の文もまとまってるんですが、もう頭が回らない・・・・・。 そんなに残りの分量がある訳でもないんですが、なるたけちゃんと書きたいので。今日は寝て、熱が下がってから書きます。はい。
一人暮らしの風邪は本当に困るんですよね・・・レトルトのおかゆ、チンするか(泣)。