熱を計ったら37度ちょっとでした。まだあるなあ・・・・・。
でも頭がボーッとしてるのはなくなったし、昨日の続きを書いてしまいます。それ程分量もありませんから。
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舞踊家の中に、あるいは舞踊家を越えてより大きな「力」が潜んでいるのを感じること、「あらゆる動きが、舞踊家を超越した力から湧き出ずるかのように見える」こと、それこそが「舞踊」を「舞踊」たらしめているなにより重要な感受性のパターンだ。
スザンヌ・ランガー『感情と形式』より

ランガーは「舞踊」に特定して著していますが、アート全般に広げて解釈してもそれほど遜色はないのではないでしょうか。それに高橋愛は「ダンスが好き」と常日頃より公言していてその方法論も少なからず口にしているので「舞踊」という言葉自体で話を進めてもいいのかもしれません。ただ前回でユトリロの絵画を引き合いに出しているのであえて全般を包括します。
ランガーの言葉を借りると『より大きな「力」が潜んでいる』『超越した力』、それらを感じる事で生まれてくる気持ち、例えは悪いかもしれませんが古代のシャーマニズムにも通ずる、人智を超えたなにかをその対象の内に見る事によって自然と湧き上がってくる心、すなわち『畏敬(畏怖)』という感情ユトリロの絵を見ている時、そして高橋愛のスイッチの入ったパフォーマンスを見ている時に僕の心を締め付けていたのは、おそらく畏敬(畏怖)の感情。もちろん人の心は1つではありませからそれだけではないと思いますが、少なくとも大勢を占めている感情の1つだと思います。
そういえば僕は以前『高橋愛を見た感想』で(どのコンサートだったかは失念してしまいました)で「怖い。高橋愛が怖い」と書いた記憶があります。知らず知らずの内に理解はしていたのでしょう。
これは脱線した話になりますが、逆説的に書くと、ランガーが述べたような感情を見る側に呼び覚まさせる能力を持つ高橋愛は、アーティストとして極めて真っ当な(この場合の『真っ当』は『類稀な』と言う意味合いも含まれる)資質を持った人とも言い換えられるのではないでしょうか。ダンスや歌、絵画を志す人すべてが、その存在を超えて作品を作り出せる訳ではないと思うからです。簡単に言うと高橋愛は、ステージに立つべくして立っている人なのだと思います。
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このテーマで書く時は、なるべく焦点を絞って考えているつもりです。ですので「高橋愛が好き!」という大前提はあえて外して書いています。今回にしてもサラッと書いてしまえば「大好きな愛ちゃんがキレたダンスや表情を見せてくれるので好き」で済んでしまう話だったりするんですが、そこで留まってもうちょっと考えてみよう。そうすれば、もっともっと愛ちゃんの事が好きになっていけるんじゃないかな。 と、言うのがこの手の更新の主旨です。
今から書いておくと、掘り下げて考えたい部分があと2つあります。
1つは、『表情』。何故僕は高橋愛の『表情』にここまでひきこまれてしまうのか。
ファンクラブから届けられたDVD『50(これで読み方合ってるのかな?ゴ→っていうのが引っ付いてるんだけど)』では愛ちゃんが「春の歌」のイメージクリップを担当していて、その時の表情は、ちょっと見ていて辛くなるくらいに吸い込まれそうになりました。何故、そうなってしまうのか。
もう1つは、『ダンス』。僕はダンスには関しては絵画以上に門外漢です。それでも高橋愛のダンスに魅せられてしまう。門外漢なのに魅せられる、という事は何かを見て感じているから魅せられている筈です。それが、一体何なのか。
この2つについて、来月コンサートに行くまでにテーマを決めて考えてみたいと思います。テーマの置き所を高橋愛にするか、それとも高橋愛を見ている自分自身にするかはその時に決めますが、どちらであってもそれはより高橋愛を愛情を込めて見つめていくため、もっと好きになっていくため、そのための『原点の確認』なんだ、という一事は忘れないようにしたいと思っています。