この高橋愛の「一人舞台」を、さいたまスーパーアリーナで見たい、と強烈に感じました。
広島で初めて『大阪恋の歌』を見た時の事です。 その時に、この曲を、広い会場の、それも、その中心で見れたらどんなに嬉しいだろう、と思ったんです。
さいたま夜公演での僕の席は、前から10列目くらい、ステージ向かって左で、花道からは通路を隔てて6列目くらいでした。そこからだとサブステージは後方になってしまいます。だから、高橋愛が『大阪恋の歌』を歌っている時、その後姿しか見る事はできませんでした。
でも、いや、だからこそ、かもしれません。サブステージを含めた、高橋愛のいるその場所が、ものすごい凝縮感を持って僕の胸に迫って来るのを感じました。
「光」の凝縮感です。
僕はステージに近い席にいたので、そこから後方のサブステージを見ると、会場の丸く広い空間を大きく感じる事ができました。その空間の中心に、スポットライトの光が数方向から集中して、その光の真ん中に、高橋愛がいて。
花道に近いので、ステージを見上げる形にもなっていました。広い空間の中心で、光に包まれて歌い、踊っている高橋愛の後姿を、僕はこの時見上げている。
スポットライトに照らされたステージの上で、実像になったり、シルエットになったり、動きによって目まぐるしく光と影の量を変化させるその姿を見ていると、確かに自分が、高橋愛の躍動する姿を、何らのフィルムもフィルターも通す事なく目に焼き付けているんだな、と実感できて、それがとても、かけがえのないものだと、時間だとわかっているから、ひたすら追い続けていました。
後ろ姿しか見る事はできなかったけど、自分がどういう風に高橋愛を好きなのか、再確認させてくれる、そんな位置と距離と光の束。
「僕はこうやって、光の中にいる高橋愛を仰ぎ、求め続けていたいんだ。」
両手を光差す天に向かって掲げた彼女を見て、溜息をつきながらそう確信していました。