BONNIE PINK My life's in the bag

BONNIE PINK My life's in the bag


BONNIE PINKは1998年に3rdアルバム『evil and flowers』をリリースした後、一旦音楽活動を休止してNYへ渡ります。
理由は、「このまま進んだら自分が腐ってしまう」。
それまでのいろいろな出来事−−−京都から東京へ上京するという環境の変化、「楽しい」と思いながらも慣れないことも多かった創作活動や製作現場、プライバシーの喪失−−−などの影響が徐々に蓄積されていき、心身ともに疲れきってしまったんです。このまま進んだら自分が腐ってしまう。壊れてしまう・・・・・・。
BONNIE PINK STYLE BOOK『My life’s in the bag』より)
BONNIE PINK高橋愛では、同じ芸能界、そして音楽業界にいるとはいえ、音楽性やファンの志向など、さまざまな点で違いがあるでしょうし、それ以前にBONNIEと愛ちゃんでは性格も個性も違います。もちろん、BONNIEが「腐ってしまう」と思ったその場所が、すべからく人を腐らせる場所では決してなかったのだと思います。
でもBONNIEは、当時あった状況に対して「危機感」を持ちました。彼女の場合は、アーティストとしての自分と一人の人間としての自分との距離感に対する葛藤だったようです。高橋愛が自分の心のどの部分に葛藤を置くかは分からないけど、今いる表現の世界にこれからも身を置いていくのなら、表現者としての自分に、また、自分自身に「危機感」を持つのは、ごく自然な流れじゃないかと思います。そして、その「危機感」の発露から、新たな道へ進もう、と決意する時が来るのかもしれません。
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先週、もう先々週になるのかな、大阪のラジオで明石家さんまさんが「NYに行った。舞台を見た」という話をしていました。過去の放送を思い出すとさんまさんは定期的にNYに行っているみたいで、ミュージカルなども積極的に見ているようでした。
そして、ことある事に愛ちゃんに「今すぐモームスやめてNYに行け。俺は若いうちに行かなかった事を後悔してる」みたいな言葉を口にします。
当代きってのエンターテイナーである明石家さんまをして「後悔している」と言わしめるほどの魅力を、NYは持っているのでしょう。ミュージシャンに限らず、アーティストでNYを拠点にしている人は数多くいます。表現や創作を目指す人間に対して、ものすごく刺激を与えてくれる街なのだと思います。その刺激は、すでに高橋愛は今年の年始に、短い期間ではありましたが体験したようでした。
「前に(米国の)ニューヨークで見たミュージカルに感動して。
 言葉や内容は違っても心にくるものがあったし勉強になった。この舞台に立てたらと、夢を抱いたよ」
「役者さんを表現者としてすごく尊敬したし、自分もいつかそうなれたらな〜って思う」
(『モーニングチャンネル』最終回より)
表現者」としてニューヨークのミュージカルに、そしてNYという場所に刺激を受けた高橋愛は、ラジオでのさんまさんの言葉を、おそらくは、ただハイハイ言いながら聞いているだけではないだろうと思います。
正直、僕自身がNYへ行ってみたい、という欲求が高まる一方だったりします。今はとても行けないけれど、5泊7日でも1泊3日でもいいからNYへ行って、多くのアーティストや愛ちゃんが感じた息吹というものを自分も感じてみたい。「表現者」として感じる部分があるのなら「鑑賞者」として感じる部分もあるはずです。愛ちゃんの見たミュージカルを見て、それから自分の好きなジャンルの、例えばメトロポリタン歌劇場でオペラを見たりする。
もし、本当にそんな事が出来たとして、自分自身がNYを感じたらなら、僕は愛ちゃんに対して、さんまさんと同じ意見を持つようになるかもしれません。
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『Eネ!』でミュージカル「リボンの騎士」の練習風景が放送された時にも、僕の頭の中にはNYが巡りました。高橋愛の表情の前に、余計なナレーションなど無意味です。楽譜に向かい合って俯き、部屋の片隅で考えながら宙をさまよわせ、個人レッスンで体すべてから声を出そうと懸命な、その少し上を見上げた『瞳』を見ていると、その『瞳』の先に彼女の夢の場所がないなんて、そんな事があっていいはずがない。そう思えて仕方がありませんでした。
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この先、高橋愛がどういう未来を進んでいくかは、誰にもわからない。本人だってきっちり分かってる訳じゃないかもしれい、ファンのこちらは更にわからない。でも、もし、もしも、愛ちゃんがモーニング娘。を卒業してNYに行くと決まったら、ものすごく嬉しい。是非、行って欲しい。僕が高橋愛に対して「欲しい」という言葉を使うのは、彼女がそうしたほうが幸せだ、と思える時だけです。その機会があるのなら、逃さないで欲しい。
そして恐らく僕は、「ものすごく嬉しい」という気持ちと同じくらい強く「行かないで欲しい」と思うでしょう。行かないでほしい。いつまでも日本にいて、モーニング娘。にいて、テレビやラジオや雑誌に出て、いつまでも、いつまでも、自分の目の前から、一瞬たりとも消えないで欲しい。
どちらも同じくらいに強い、僕の気持ちです。でも、もしNYが現実の出来事となったなら、僕は、「行かないで欲しい」という気持ちを崖から突き落とす覚悟は出来ているつもりです。
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想像してしまうんです。高橋愛がNYで暮らしている、その暮らしを。
アパートメントから鞄を持って、街へ飛び出して行く。服はやはり好きな黒系統で、レッスンスクールまでNYの喧騒を歩いていく。バスに乗るかも、地下鉄に乗るかもしれない。最初は言葉もわからないけど、少しずつ慣れて来て、近所の店の人なんかと楽しく話したりもできるようになる。
大好きなミュージカルを思う存分見る事もできる。ミュージカルは、いつでもそこにある。料金だって安いんじゃないかな。好きな時に、いくらでも見る事ができる。それがまた、彼女の糧になっていく。
恋だってするかもしれない。日本と違って、それほど人目を気にする必要はないはず。誰憚る事もなく、好きな人の隣で街を歩く事ができる。
そうやって、夢や、希望や、愛情を隣に置いてNYの通りを歩いている高橋愛を想像すると、それが彼女の願いであるとするならば、それは僕の願いでもある、と言い切ってしまいたいくらいに、嬉しくなるんです。
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そして、崖から突き落としたもう一人の自分の所まで下りて行って、こう言うと思うんです。
「さっきは悪かった。でも、愛ちゃん見てみなよ。あんなに輝いてるじゃないか。」
それを聞いて、ふらふらと立ち上がり、崖の下から続く海の彼方に輝いてる彼女を見つけた時、
もう一人の僕は、傷だらけの体で、目を細めて笑うだろう、と、そう、信じているんです。