tombouze2006-08-21

『わたあめ』以外の4つの写真集(『高橋愛』『アロハロ高橋愛』『愛ごころ』『19』)が「写真」を撮る感覚で写真を撮っているのに対して、『わたあめ』は「映像作品」を撮る感覚で写真を撮っているのではないか、と感じています。
理由の1つに、「カメラ目線の少なさ」があります。全5冊の写真集を見比べてみると、『わたあめ』は他の4冊に比べて愛ちゃんがレンズを見ている写真が段違いに少ないです。
もちろん全くカメラを見ていない訳ではなくて、全体としては相当数カメラ目線もあるんですが、例えば、河原でセーラー服を着ているシークエンス。全13ページ。
愛ちゃんがカメラを見ているのはそのうち、2ページ見開き4枚組写真の中の、小さな2枚。これだけです。その2枚ですら、1枚は光の中に顔が隠れている、もう1枚は髪の毛に顔が隠れている、と、はっきりとしたカメラ目線ではありません。強引に言ってしまえば、カメラマンは13ページ、「こっちを見ていない」愛ちゃんを写している事になります。
水着ショットでも、視線を横に向けている写真がかなり目立ちます。『アロハロ!』あたりと比べてみると一目瞭然です。
こちらを見ている写真でも、ブルーや水鉄砲の水でぼやけさせてみたり、フレーミングに凝ってみたりと、普通にハロショ生写真のように「カメラ目線でそのまま撮った」みたいな写真はかなり少ないと思います。
カメラ目線ばっかりの「映画」って、ないですよね。カメラ目線を嫌う映画監督もいた記憶があります。普通はカメラから目線を外して、何かを強調したい時なんかにカメラ目線を使う、という場合が多いんじゃないでしょうか。『わたあめ』も似たような感じで、愛ちゃんの目線をカメラから外す事によって、写真に「映像」に似た連続性を持たせているんじゃないかなと思いました。
もう1つの理由は、上にもちょっと書きましたがフレーミングや余白の使い方がかなり凝っている、という点です。
例えば、組写真がとても多い。5冊の中で一番組写真が多いのが『わたあめ』です。『高橋愛』も多いんですが、『高橋愛』が何枚かの写真をスナップのように貼り付けているのに対して、『わたあめ』はかなり明確に連続性があります。
それから、「余白」を使った組写真も数個あります。余白は、別にそこは見ないでいい、という意味じゃなくてその余白を含めて写真なので、例えば、
余白もこの日記のバックも白いので、わかりやすいように外枠を付けました。
この写真を見てどう感じるか、は人それぞれかもしれませんが、僕とかだと、写真が中央より上部分にあって下に多く余白が取られているので、浮遊感、というか、やはり連続性を感じてしまうかもしれません。
ちなみに、この写真集では「余白」を使った写真の場合、写真は全て中央より上にあります。
こういった、いろいろと凝った構成をしているのも『わたあめ』だけです。
とまあ、わかった風な口を聞いてますがこれでも必死で観察してるんです(笑)。
上のような理由から、この写真集は「映像作品」っぽく撮影されているんじゃないかな、と思ったんです。
特にこの写真集は写真それ自体、幻想的だったり、象徴的だったり、概念的だったりするショットが多いので、そういったものを「イメージビデオ」のように、流れるように見ていく写真集なのかな、と感じました。