物語。
文字、というものが存在しない遙か昔から、人々は物語を作り続けて来ました。
例えば、母親から子供へ。語り部から聞き手へ。
連綿と受け継がれていく、物語。
子供は寝床で、同じお話を何回も母親にねだるでしょう。
ストーリーも、結末もわかっている筈なのに、それでも、もう一度、もう一度、とせがむ。
そして、何回も何回も、ドキドキしたり、ワクワクしたり、
心躍らせながら、少しずつ眠りの淵に落ちていく。
人々は、物語を繰り返し思い描きます。
繰り返し語り、繰り返し聞いて、
文字が生まれると繰り返し読み、
映像が生まれると繰り返し見る。
人々は、物語の中の人物がどういう結末を迎えるかを知っています。
その人物が、物語の中でどういう人生の川を流れて行くのかも知っています。
傍観者である我々は、川の流れを変える事も、堰き止める事もできません。
ただ、結末まで流れて行くのを確認し続ける以外に為す術がなくて、
そういう、永遠に触れる事の出来ない世界であるが故に、人々は物語に永久に惹かれ続けるのかもしれません。
だから。
□  □  □
だから僕は、ブーケを持ったサファイアを見ると胸が思い切り締め付けられた。
彼女がこれから、どういう物語の川を流れて行くのかを知っているから。
裏切られ、瞞され、罠にはめられて、粗末な服を着せられ、牢屋に放り込まれ、
逃げ出し、疲れ切った母親を肩に抱き、倒れ、亡き父親に祈り、願い、
ナイフで魂をえぐり取られ、
剣で体を貫かれて、
そして「しあわせ」と、両手を、まるで天に感謝するかのように捧げながら、
死んでいく。
□  □  □
だから僕は、ブーケを持った、白と水色の美しいドレスに身を包んだサファイアを見ると、
花言葉の歌を歌っているサファイアを見ると、
母親と段に座って花束を作っているサファイアを見ると、
その母親の元に駆け寄る時に、
まるでカナリアのように軽やかに笑うサファイアを見ると、
物語の先に、愛する人カナリアのように笑うサファイアを思い描くと、
胸が締め付けられるくらいに愛おしくて、
愛おしくて、どうしようもなかった。